~坂本龍馬が愛した本物のソイソース(醤油)を堪能してもらいたい!!~

世界最古の醤油蔵元が伝えたい本物の醤油

弊社は天正元年(1573年)、越前・福井の地で糀・酒・味噌・醤油の醸造場として創業しました。元禄2年(1689年)に醤油専門の醸造場とし、江戸時代には福井藩最大の醤油屋でした。
幕末には、長崎・出島の越前蔵屋敷からオランダ商館を通して世界へ輸出するなど、440年以上に渡り醤油の醸造・販売を続ける世界最古の醤油蔵元であります。

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グルタミン酸ナトリウム(MSG)「表示名:調味料(アミノ酸)」について

近年、食の安全や健康への関心の高まりなどから、無添加・天然醸造・地産地消などをキーワードに、歴史の古さもあって弊社の本物の醤油への問い合わせが増えております。
2011年には、幕末当時の製法を再現した「幕末のソイソース」を発売しました。
反響は大きかったものの、グルタミン酸ナトリウム(MSG)などの人工添加物に馴れた消費者には舌先のインパクトが足りないようでした。
そこで、天然のアミノ酸を多く含む魚醤に目を付け、福井県立大学の発酵専門家・宇多川教授と共同研究することとなります。
グルタミン酸ナトリウム(MSG)は、通称グルソと言われている「旨み調味料」の事で、日本では「美味しい」と言われるほぼ全ての食品に入っております。
日本では当たり前のこの調味料が先進諸国では制限・禁止されております。この「グルタミン酸ナトリウム」は、旨み成分である「グルタミン酸」とは全くの別物で、以前より健康に影響を及ぼすと言われてきました。
サプリ大国の米国でさえ、ベビー食品への使用は禁止されており、「NO MSG」の表示が無いと消費者の支持は得られません。
しかし、日本では規制が無く、親御様を満足するため、ベビー食品を始め、子供が好きなスナック類には大量に入っております。
醤油の場合も、グルタミン酸ナトリウムのお陰で100円/1リットルの美味しい醤油(醤油もどき)を2~3日で簡単かつ大量に生産できます。
弊社は、いずれ本物の醤油が評価される時代が来ると信じ、天然素材にこだわった醤油造りを続けておりました。近年、開発した弊社の醤油は、どれも数年間の研究の成果です。

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福むらパンフ1big

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室次と坂本龍馬の関係

1838年、幕末の四賢侯松平春嶽公が福井藩藩主になった頃、福井藩も財政難でした。
1859年、福井県の金庫番である由利公正は長崎からヨーロッパへ醤油(福井城下の醤油を取り扱っていたのは、ほぼ室次の醤油でした)と生糸を輸出しました。
1862年頃には、輸出総額300万両に達し福井藩の財政は立ち直りました。このお金は、千両箱2つを載せた馬125頭が、長崎から福井まで運んだそうです。街道の人々はさぞかし驚いた事と思います。
1863年7月、坂本龍馬が福井藩から5000両を借り、神戸に「海軍操練所」を設営します。
つまり、醤油で儲けたお金があったので、松平春嶽公も龍馬に5000両を貸せたのです。
尚、この頃の福井藩の年間予算は10万両。
1867年10月、坂本龍馬は由利公正を新政府の大臣にスカウトするため再び福井を訪れます。莨屋(たばこや)旅館で「日本を洗濯するため」の将来を語りながら、”おまんらー、室次の醤油、うまくて驚いたがよー”と上機嫌だったとか。
この頃の遠距離輸送は船だったので、九十九橋の船着場から100mほどの距離の莨屋旅館の北隣に室次分店があり、原料の大豆を降ろすと同時に、醤油を積み込み、三国、敦賀まで運んでいました。当然、莨屋旅館にも室次の醤油を納めておりました。
幕末の激動の時代、龍馬が福井に来て、室次の醤油を味わったのは、不思議な縁を感じます。そこで、この時代の製法で再現した醤油「幕末のソイソース」を復刻しました。
人口調味料・人口甘味料・保存剤など一切無添加で1年間熟成した天然醸造の醤油です。
今回のクラウドファンディングでは、坂本龍馬の磁器を用いたお醤油をご用意させて頂きました。是非、皆様にも、本物の醤油を味わって頂ければと思います。

磁器製 坂本龍馬像のイメージ図

中身のお醤油は幕末当時の製法を再現した「幕末のソイソース」となります。

竜馬像デザイン画1

竜馬像デザイン画2

□会社情報

天正元年(1573年) 戦国大名の朝倉家家臣であった当主は、織田信長との戦で全員討ち死にし、残された人々で柴田勝家が北ノ庄城下を作る時、上神明町(現在地:福井市田原)で酒・醤油・味噌・糀業を始める。
創業者の室屋儀右衛門(内田十内)は10歳に満たない子供であった。
この地は、北陸街道と三国街道が合流する交通の要所で、上水道(後の芝原上水)が流れ、醸造に最適な場所であった。また、この頃の醤油は、味噌の下にわずかに溜まる「溜まり醤油」で、量が少なく、非常に高価な物であった。
元禄2年(1869年)2月 室次創業。室屋4代目次左衛門が、遠く和歌山県紀州湯浅で、この頃確立された大量生産が可能な最新醸造法を学び、酒の醸造設備を変更、本格的に醤油の大量生産を始める。醤油の専門醸造場として、屋号「室次」を創業した。これにより、価格の安い醤油を大量に造る事が可能となり、一般庶民も醤油を使う事が出来るようになった。この頃から醤油が急速に広まり、船・大八車を使って各地に配送した。
また、丁稚で入った職人が「のれん分け」で各地で醤油を造り始め、福井の醤油屋が形成されていった。江戸時代の醤油1升の価格は、日本酒の大吟醸1升の価格より高かった。
元禄16年(1703年) 室屋惣右衛門(室屋次左衛門の弟)は三国に分家し、三国室屋創業。醤油業を営なむ。二代目惣右衛門は回船業を始め、豪商(内田家)となる。幕末、醤油の輸出に大きく関わる(※1)
安政6年(1859年) 幕末頃の福井藩の財政は最悪であったが、松平春嶽公の命を受けた由利公正は長崎に越前蔵屋敷を建て、出島から、ヨーロッパへ生糸や醤油(ソイソース(英語)・弊社商品名「菊醤油」)を輸出し、福井藩の財政を建て直した。この時輸出した醤油を再現した醤油が「幕末のソイソース」である。 この頃、室次は福井県最大(生産量 3000石、約540,000㍑/年)の醤油屋で、八代目亀十郎(30歳)は福井藩に協力し、室次中興の祖となる。
文久3年(1863年) 坂本龍馬が福井藩主松平春嶽公から5千両(福井藩の年間予算約10万両)借金し、「神戸海軍操練所」を作る。龍馬はこの時、莨屋(たばこや)旅館(福井市照手)に泊まり、由利公正と酒を飲み明かした。この莨屋旅館の北隣に室次の分店 (※2)(※3) があり、龍馬も室次の醤油「幕末のソイソース」を味わった。
明治5年(1872年) 岩倉具視・由利公正視察団一行は、オランダで幕末に輸出されていた弊社醤油「菊醤油」を確認。
明治35年(1902年)3月 福井大火。
昭和20年(1945年)7月 福井大空襲。
昭和23年(1948年)6月 福井大震災。
昭和23年(1948年)7月 福井大水害。
昭和37年(1962年)7月 大火・戦災・地震・洪水など、甚大な被害を何回も受けたが、そのつど建て直し、この年、しょうゆ油・植物油・ラード・油脂部門を独立させ、資本金200万円にて、株式会社室次を設立し、石油製品の販売を開始した。
平成22年(2010年)2月 資本金3,800万円に増資。
平成23年(2011年)3月 こだわり醤油「幕末のソイソース」の販売を開始。
平成24年(2012年)3月 日本初、無臭魚醤入り減塩しょうゆ「旨醤」(うましょう)を福井県立大学と共同開発。
平成26年(2014年)1月 骨抜きしょうゆ一夜干の販売を開始した。
平成26年(2014年)3月 世界初、アルコール分0%(醤油は元来約3%含有)の福むらさきを開発。
平成27年(2015年)2月 旨みたっぷり粉末魚醤の販売開始予定。
(※1)幕末、由利は数社の醤油をかき集め輸出した。一番多かったのが室次の『幾久志やうゆ』『菊醤油』(きくしょうゆ)であった。
(※2)室次分店は物流基地でもあり、九十九橋の舟着場まで100mほどで、原料の一時置き場であると同時に、ここから舟で醤油を三国、鯖江、勝山、大聖寺、敦賀まで運んでいた。(江戸時代は遠距離輸送は舟だった)
(※3)室次分店は明治の後半頃、物流が舟から荷馬車・鉄道に変わったため、福井市みのり(屋号:大町屋)に移し、この跡地に吉田病院を建てた。
〒910-0018
福井県福井市田原2-4-1
株式会社 室次(むろじ)
代表取締役社長(室屋15代目次左衛門)白崎裕嗣
TEL 0776‐22‐2001(代表)
FAX 0776‐22‐2031
HP http://www.muroji.com/
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